[KIT03/19090000_meisen-kaikou.html]
■(1909m42)明治専門学校/開校
<提供・撮影・編集>  web、   流星13号(部史).p8-13

炭鉱経営が軍事特需で繁栄、森鴎外からの浪費戒めに触発され4年制の工業専門学校を設立。

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□(1909m42)明治専門学校/開校
<提供・撮影・編集>  web

軍医「森鴎外(森林太郎)」が、(1899m32)小倉に赴任。
当時の日本は「日清戦争」(1894m27〜95m28)に勝利し、北九州の炭鉱経営は軍事特需で繁栄。
(1899m32.9/26)付「福岡日日新聞」に、「我をして九州の富人たらしめば」と題して、
裕福な財界人の浪費を戒め学問・芸術など九州の文化的向上に尽くすよう警告。
この記事を読んだ「安川敬一郎」は、
「財は吝(おし)むべからず須(すべか)らく之を活用すべし」(国家で得た利益は国家に返すべき)
として学校設立を決意。
10年後の(1909m42)「明治専門学校」設立。目的は、工業技術者の養成。
創立者「安川敬一郎」(1849-1934s9)は、福岡藩士徳永家4男、安川家に養子。
(1877m7)兄が養子に入った松本家の筑豊炭鉱の経営に参加。
(1896m29)明治炭鉱を創業。有力な炭鉱経営者に成長。当時の「筑豊御三家」麻生・貝島・安川。
1900年代初頭から形成された八幡製鉄所を中核とした北九州工業地帯の八幡製鉄所の誘致に参加。 様々な職種の企業設立、代表例(1915t4)「安川電機」創立。北九州の実業家として基盤を築く。
明治時代の短い期間に工業化が進み資本主義が根付いた背景は、
司馬遼太郎「街道をゆく」2巻に詳しい(官僚の清潔さ、日清・日露戦争による軍事特需)。
筑豊の炭鉱は空前の好景気、彼は莫大な利益を「意外なことで生じた余剰」と捉えた。 400万円(現1千億円)入手。炭鉱経営者の浪費を痛烈に批判警告した森鴎外。 彼も鴎外と志を同じくしており、「明専」設立を決めた。
彼が工業に特化したのは、「世界の列強と互していくには工業発展が至上命題」との思いから。 戸畑に10万坪取得し、学校経営に330万円差し出し、東大総長だった「山川健次郎」を説得し学校運営を委任。
(1907m40)「明治専門学校」設立許可。
(1909m42)私立「明治専門学校」開校、入学57名。
学科は、当初「採鉱、冶金、機械工学」、増設「応用化学、電気工学」
当時、専門学校は3年制だが、4年制で大学並の技術養成と「技術に堪能なる士君子たれ」。
(1921t10)創立12年、不況のため国立へ移行。建学の精神はそのまま。
(1949s24)「九州工業大学」に昇格。
彼が蒔いた種は、これからも、この学び舎で育ち続けていくことでしょう。

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旧本館:ウィキペディアより
ビデオ
明治専門学校
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安川敬一郎
(明治専門学校の創業者)

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□(1909m42)明治専門学校/開校
<提供・撮影・編集>   流星13号(部史).p8-13

当時の私学では初の工科系専門学校。 当時の工業系専門学校は3年制、工業科の知識や技術の修得には不足とし4年制を採る。
(1910m43)「責善会」発会:山川総裁、命名。孟子の言葉より引用。
(1911m44)全寮制に対応。
戸畑本館の前庭に5体の胸像がある。
1.安川敬一郎男爵、2.山川健次郎博士、3.松本健次郎先生、4.的場中初代校長、5.嘉村平八学長。

○胸像1:安川敬一郎男爵/「流星13号.p9-10」。(1934s9)逝去。
「戸畑町中原」10万坪を買収し、「学校施設」に加え「学生寮・教官職員の宿舎・その子弟の小学校」まで建設。 学問の場に相応しくするため、周辺の土地も買収し遊興用の料亭の出店を防衛。
学校名には、売名行為を恥じとし「安川」ではなく当時の年号「明治」を採用。
○胸像2:山川健次郎博士/「流星13号.p10」。(1931s6)逝去。
(1901m34-1905m38)東大総長。(1907m40)から学校開設に協力。
「明治専門学校/初代総裁」就任:(1911m44)まで。
博士が掲げた「徳目八箇条」は明専精神の基となった。
「徳目八箇条」:忠孝にはげむべし。言責を重んずべし。廉恥を修むべし。勇気を練るべし。礼儀をみだるべからず。 服従を忘るべからず。節倹をつとむべし。摂生を怠るべからず。
○胸像3:松本健次郎先生/「流星13号.p10-11」。(1905m38)逝去。
「安川翁」の明専設立の片腕。「初代校長代行」。
○胸像4:的場中初代校長/「流星13号.p11」。
○胸像5:嘉村平八学長/「流星13号.p13」。
「新荘教授34の座談会」によると、 「自動車部の学生が本来の学業をおろそかにして自動車にうつつを抜かしているのは問題」という一部の意見に対し、「嘉村学長」は、 自動車産業は数年先には、必ずや先駆的産業になる。 その新産業の将来の担い手の芽を摘むような意見には賛成しかねる。」とつっぱねたそうだ。

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胸像1.安川敬一郎男爵

部室アルバム
<1B>[19090000_meisen-kaikou_2_yamakawa_rys-13-p10_bst_a]

胸像2.山川健次郎博士

部室アルバム
<1C>[19090000_meisen-kaikou_3_matumoto_rys-13-p10_bst_a]

胸像3.松本健次郎先生

部室アルバム
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胸像4.的場中初代校長
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胸像5.嘉村平八学長

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