パリダカの仕事ができたのは自動車部があったから
バリダカ(パリ-ダカールラリー)のエンジン開発やマネージメントの仕事等を約20年担当してきた。
この仕事ができたのは自動車部に入部したことがきっかけとなった。ここでのラリー経験が。
私の時代は16歳で軽自動車免許が取れた。家業の手伝いのため、私は高2で免許を取った。
普通乗用車に乗るには再度試験を受ける必要がある。この免許取得のためと体育会系としてそんなに厳しくないクラプということで
自動車部に入部した。
入部して暫くしてラリーがどんなものか少し理解しだした頃、歯科大のラリーが開催され、
先輩が出場されるということで、スタートに応援にでかけたが、ここで先輩(44年卒 伊藤氏)に「席が空いているから、乗らないか。」
と促されナピゲーター席に乗り、地図を見ることになった。ただ地図をみてドライバを誘導するだけで気楽にできたように感じる。
そしてゴールしてみれば優勝であった。これがラリーを好きになるきっかけとなった。
学生時代はナピとして、徳尾三郎さんと何度も出場した。でも徳尾三郎さんとのコンピでは勝てなかった。
勝つ寸前までは行ってたのだが・・・。他のラり一、歯科大ラリーは49年卒の河野君の本田Zで優勝したこともある。結構勝った思い出が
ある。この学生時代にラリーが私の趣味となった。
卒業後、三菱自動車に入社、エンジン研究部に配属された。この部署ではサザンクロスやサファリラリー用のエンジンを
開発していた。が、この担当に着くことはできなかった。その後排ガス規制が始まったことで一時ラリー活動は中比されていた。
入社後15年ようやく高性能エンジンの開発の業務を担当することになって1年後“三菱はラリーを再開する"とのことでラリー用エンジン開発を
担当することになり、WRCのギャラン、ランサ一、パリダカのエンジンを開発、現場に出かけるようになった。特にパリダカには毎年行くように
なった。初めは60人のチームで日本人は篠塚と私だけ。他はみなフランス人。ほとんどフランス語。英語ができるフランス人にくっついて
カタコトの英語で仕事を進めた。でも趣味が自分の仕事となったことで全く苦痛なく、仕事はできた。
エンジンの開発担当は6年、その後はラりーアート社に出向し、三菱ワークスチームやタイ、中国チームの予算管理から
出場、ドライバ選考など色んなことを手掛けた。
「趣味=仕事」だから仕事には集中する、努力する、そして楽しむ。私の会社生活38年の約半分がこれであった。
こんな仕事ができたのも“自動車部があったからこそ"である。
定年退職後も自営で自動車関連の仕事を続けている。モータースポーツ競技にも出かける。あと10年はこの世界に
楽しみながら関わって行こうと思っている。日本のモータース方ーツは衰退ぎみであるが何とか支えて行きたい。了
[ 川越さん(s47) 記/流星23号(P.17)(2011.12/20発行) ]