自動車部と私
私は、昭和33年入学、37年卒業であるが、34〜36年の2年余り忘身寮の部室で過ごした。
その間、幹事(後の主将)、代表学連委員などを経験した。
この間、自動車を取り巻く環境が急激に変化し、貨物から乗用車へ、対外活動としても西日本学生自動車連盟の
発足、翌年には全日本学生自動車連盟への加入等があった。
以下、手元の記録と記憶を頼りに書いたが、半世紀前のことであり一部不確かな部分があることをお許し願いたい。
「昭和三十五年度全日本学生自動車連盟名簿」によると、全国の加入は59大学、九州地区では、ABC順に福岡、
鹿児島、熊本、熊本学園、久留米、九州、九州工業、宮崎、大分、佐賀、西南学院の11大学である。
部車は登録番号のある車が、@「福1た0015」トヨタ44年式、『彗星号』、定員3名、
A「福4す3516」トヨエース57年式、定員2名、B「福4せ6215」トヨペット54年式、定員5名、500kg、
C「福5す9792」トヨペットクラウン57年式、定員6名、D「戸畑0003」トーハツ55年式、定員1名で 貨物3輌、
乗用車1輌、単車1輌である。『彗星号』で大型貨物、トヨエースで小型貨物のアルバイトをして、部活動費を稼いでいた。
登録番号のない車は、@トヨタ46年式貨物、定員2名、4000kg、Aトヨペット51年式貨物、定員5名、750kg、
Bマーキュリー51年式箱型、定員6名、Cシボレー35年式バス、『流星号』、定員9名、Dシボレー35年式貨物、『蒼龍号』、定員3名、
750kgの計5輌であった。
@のトヨタ車は八幡製鐵(株)から寄贈を受けたもので、枝光の本事務所に引取りに行った。その本事務所跡地が
「北九州八幡ロイヤルホテル」となり、今年の自動車部OB会総会会場となったのには因縁を感じる。この車は『銀河』と命名され
普通免許受験の練習車となった。免許試験場は日明の埋立地にあり、試験車はいすゞのトラックであった。大型免許試験場は北九州には無く、
福岡まで受験にいかなければならなかった。
Aのトヨペット車も八幡製鐵(株)から寄贈を受けたもので、『流星号』が使用出来なくなってからは、専らD級練習車となった。
Bのマーキュリー車は若松東洋タクシーから寄贈を受けたもので、仮ナンバーをとってドライブに行ったことがあるが、
左ハンドルで燃費が悪いのであまり使われなかった。
Cの『流星号』はS17年に寄贈を受けてから17年間活躍した。この車のお世話になって巣立っていった部員は多い。
エンストするとスターティングハンドルを持って降り、クランクシャフトを回して掛けなければならず、乗合自動車の扉は開放のままで、
乗り降りが楽で、定員が9名とD級練習用としては理想的な車であった。私は、たまたま練習生として同乗中、その最後に遭遇した一人である。
S34年5月頃だったとおもうが、練習指導は幹事の信國之雄氏(鉱35)、運転していたのは同級のS君(金37)で、故障の原因は
ディファレンシャルギアの破損であった。この車その後しばらく放置されていたが、嘉村剛氏(化33)の呼びかけでS36年3月に告別式が挙行された。
S34年5月に熊本大学を中心に西日本学生自動車連盟が結成され、記念の第一回九州一周学生ラリーが開催された。
翌35年には全日本学生自動車連盟九州支部となり、九州工大が初代当番校となったので、山田俊雄君(化37、学連副委員長)と私(代表学連委員)の二名が
九州代表として全日本学生自動車連盟大会に出席した。私にとってはこれが生まれて初めての上京であった。後援の朝日新聞社を表敬訪問、神宮外苑では、
連盟加入の各大学と交流したが、その時自動車部が体育会系であることを奇異に感じたものである。同年齢の自動車評論家徳大寺有恒氏によると
当時同氏が,所属していた成城大自動車部は文化部に属していたので学生自動車連盟には加入できなかったと著書にあるが、九州工大の場合は
西日本学生自動車連盟メンバーの一括加入を条件にして全日本学生自動車連盟に加入したので問題にならなかった。しかし、その後自動車部の活動内容が
急激に変化したのは、この連盟加入がきっかけになったのではないかと思う。対外名称の監督、主将、主務等それまでは使っていなかったものである。
『明専会報』(S36年3月号)に当時は珍しかったラリー紹介の記事を寄稿した。これは『流星』記念特別号にも転載された。
S37年4月住友金属工業(株)に入社、本社での研修後小倉製鉄所に配属された。丁度、北九州オートクラブが結成されることになり、
手伝うことになった。旭硝子、三菱化成、朝日新聞社等の人がいた。ラリーを開催した時は現役の自動車部員に手助けをして貰った。『流星』創刊号
(S40年12月発行)の編集後記には、当時新婚ホヤホヤの小生のことが書かれている。妻は、同じ自動車部室にいたS氏(電36)の妹である。
S41年5月和歌山製鉄所に転勤、自動車同好会設立の企画書を作成にも参加した。社内ラリーを開催したり、関西地区の社会人ラリーにも
参加したりしたが、S48年の第一次石油危機とほぼ同時期に発生した高炉でのガス中毒事故で出場予定の仲間が死亡したのを契機に競技とは縁を切った。
[ 門司さん(s37) 記(2011.11)/流星23号(p.15)(2011.12/20発行) ]