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■(1909m42)明治専門学校_開校

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□(1909m42)明治専門学校_開校
<提供>  近藤(s54)  

軍医「森鴎外(森林太郎)」が(1899m32)小倉に赴任。
当時の日本は「日清戦争」(1894m27-5m28)に勝利し、北九州の炭鉱経営は軍事特需で繁栄。
(1899m32.9/26)付「福岡日日新聞」に、「我をして九州の富人たらしめば」と題して、
裕福な財界人の浪費を戒め学問・芸術など九州の文化的向上に尽くすよう警告。
この記事を読んだ「安川敬一郎」は、
「財は吝(おし)むべからず須(すべか)らく之を活用すべし」(国家で得た利益は国家に返すべき)
として学校設立を決意。
10年後、私立「明治専門学校」開校。
目的は、工業技術者の養成。
創立者「安川敬一郎」(1849-1934s9)は、福岡藩士徳永家4男、安川家に養子。
安川電機 (1915t4)創立。
(1877m7) 兄が養子に入った松本家の筑豊炭鉱の経営に参加。
(1896m29) 明治炭鉱を創業。やがて「筑豊御三家」麻生・貝島・安川。有力な炭鉱経営者となる。
1900年代初頭から形成された八幡製鉄所を中核とした北九州工業地帯の八幡製鉄所の誘致に参加。 様々な職種の企業設立。北九州の実業家として基盤を築く。
明治時代の短い期間に工業化が進み資本主義が根付いた背景は、
司馬遼太郎「街道をゆく」2巻に詳しい(官僚の清潔さ、日清・日露戦争による軍事特需)。
筑豊の炭鉱は空前の好景気、彼は莫大な利益を「意外なことで生じた余剰」と捉えた。 400万円(現1千億円)入手。炭鉱経営者の浪費を痛烈に批判警告した森鴎外。 彼も鴎外と志を同じくしており、「明専」設立を決めた。
彼が工業に特化したのは、「世界の列強と互していくには工業発展が至上命題」との思いから。 戸畑に10万坪取得し、学校経営に330万円差し出し、東大総長だった「山川健次郎」を説得し学校運営を委任。
(1907m40)「明専」設立許可。(1909m42)開校、57名入学。
学科は、当初「採鉱、冶金、機械工学」、増設「応用化学、電気工学」
当時、専門学校は3年制だが、4年制で大学並の技術養成と「技術に堪能なる士君子たれ」。
創立12年(1921t10)、不況のため国立へ移行。建学の精神はそのまま。
(1949s24)「九州工業大学」に昇格。
彼が蒔いた種は これからも この学び舎で育ち続けていくことでしょう。
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明治専門学校
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安川敬一郎
(明治専門学校の創業者)

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